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知ってることだけ話しますよ

感受性を持って生まれた以上、面白がれぬものがあるかよ

洋画の字幕/吹替問題について考えてみる。

オピニオン的な

「とんでもねぇ、待ってたんだ」

 

突然だが、みなさんは洋画(外国の映画)を鑑賞する際、原語に字幕スーパーで見るだろうか、それとも日本語の吹替で見るだろうか。

返答は2パターン(字幕で見るor吹替で見る)しかないだろうが、「なぜ字幕で見るか」「なぜ吹替で見るか」を述べるとなると、十人十色で様々な意見が出ることだろう。

 

近年は3Dや4DXといったアトラクション的な上映方式の発達もあり、ファミリー向け作品以外でも、吹替版の劇場上映が増えてきている。2015年には『007/スペクター』が、同シリーズとしては初めて、吹替版の劇場上映がなされた。

また、20世紀FOX「吹替の帝王」「吹替の名盤」、ワーナー・ホーム・ビデオ「吹替の力」ソニー・ピクチャーズ「吹替洋画劇場」といった、日本語吹替の充実性を謳った映像ソフトのリリースも相次いでいる。

日本語吹替に対する注目は、年々高まっているようだ。

 

しかし、何かが注目を集めると、穏やかならざる事態も発生するのが人の世の常。

 

「洋画は字幕で見てこそ」「俳優本人の声を聞かないのは真の映画好きではない」といった持論を振りかざす字幕派

VS

「吹替は台詞の情報量が字幕より多くなるから、字幕よりしっかり内容が理解できる」と吹替の利点で反撃する吹替派

 

この抗争が、広大なネットの海で幾度繰り返されてきたことか。

 

怖いもの知らずな人は、以下の商品のamazonレビュー欄を覗いてみるといい。地獄絵図と呼ぶのも生ぬるい、凄惨な光景が眼前に拓けるであろう。

  

 

 

字幕で見ることの是非、吹替で見ることの是非は、ここでは考えない(私はどちらかというと吹替派なので、公平な視点を持てない。ゆえに是非を語ってもしょうがない)。

「なぜ字幕で見る人はそうするのか」

「なぜ吹替で見る人はそうするのか」

を私なりに考えてみたい。

 

 

  •  環境の違い

いちばん大きいのはこれだと思う。

 

私の知り合い・有人にも、映画を見るのが好きだという人はけっこういる。洋画を字幕で見るか吹替で見るかを聞くと、意見は半々くらいに分かれる。

そして「字幕で見る」と答えた人に、その理由を聞いたところ、以下の3つに分類できた。

 

「小さい頃から、親に連れられて劇場に見に行っていた」

「小さい頃から、ビデオ(VHS)を借りてよく見ていた」

「小さい頃から、親がスカパー!の映画チャンネルで見ているのを横で見ていた」

 

いずれも、「小さい頃からそうしていた(だから、今も字幕で見るのが習慣になっている)」という理由だった。

 

子供のころの原初体験が、人格形成に果たす役割は大きい。映画体験のスタートが字幕での鑑賞だったならば、それが自分の中でスタンダードなスタイルとして根付くのも当然だろう。一種の刷り込みといえるかもしれない。

これは吹替で見る側も同じことが言える。

 

私自身のことを書くと、先に述べたような環境にはほど遠かった。つまり、

 

・行動圏内に映画館が無い

・行動圏内にレンタルショップが無い。ついでに言うと家にビデオデッキも無い

・スカ、パー……?

 

北関東の田舎育ちで、歩いて行ける娯楽施設はコンビニか駄菓子屋くらいだったし、我が家にはじめてやってきた記録媒体の再生機能つき機器はPS2だった。スカパー!は契約してもそのうち飽きて金だけ払う状態になってしまいそうなので、契約する気になれない。

 

そんな環境で、洋画に触れる機会は何だったか。地上波の洋画劇場だったのだ。

 

洋画が地上波で放映される際、NHKや深夜放送などの例外を除き、ほとんどは日本語吹替で放映される。

 

映画館に通えず、ビデオ視聴もままならない私にとっては、洋画を見ることは、すなわち日本語吹替で見ることだった。

 

20世紀FOX「吹替の帝王」公式サイトに掲載されているコラム「とり・みきの吹替どうなってるの」第1回掲載分にも、作者とり・みき氏とその同世代が、TVで洋画の吹替版を見るのが映画の原初体験だった旨が語られている。

video.foxjapan.com

現在のように周りに普通にレンタル店があり、衛星放送やケーブルテレビでノーカットの外国映画が頻繁に流れている環境からは想像しにくいかもしれませんが、80年代の中頃までは、公開の終わった映画というのはリバイバル上映がない限り見るすべはありませんでした。とくに名画座もフィルムセンターもない地方都市では、唯一テレビで放映されるのを待つしかなかったのです。
 つまり我々の世代は、洋画はテレビの吹替版の「洋画劇場」で体験し学んだのです。
 再見どころか、ほとんどの作品が「テレビが初見」でした。

とり・みき氏は私より世代がだいぶ上になるが、私もほぼ同じ環境に身をおいていたわけだ。

 

  • 争いの根源にあるもの

字幕派にとって洋画の原初体験が字幕視聴であるように、吹替派にとって洋画の原初体験は吹替だ。最初に見たものが親になるから、両者の中にはそれぞれ

 

「最初に字幕で見たから、字幕で見るのが当たり前」

「最初に吹替で見たから、吹替で見るのが当たり前」

 

という価値観がある。

 

頻発する字幕派VS吹替派の論争に終わりが見えず、また論争の全てが実りなき不毛なものとなる原因は、環境によるものだと思う。字幕派と吹替派は、映画に対する原初体験がちがうから、そこから育まれた価値観もちがう。ゆえに、互いの意見がまったく理解できないのだ(理解はできても納得はできない)。

 

news.livedoor.com

憶測の域を出ないのだが、字幕派の「吹替はここが悪い」、吹替派の「字幕はここが悪い」という主張は、後からひり出した理屈なんじゃないか。

 

字幕で見ること/吹替で見ることが本能的に刷り込まれていて、しかしそれは無意識の領域だから、後から理屈として「この視聴方法にはメリットがある」と主張する。しかし、それは表面的な繕いだから、他者を納得させ、意見を改めさせるほどの力を持ち得ない。だから不毛な争いが無くならない。

 

  • 結局どうしたらいいんだろう

字幕派VS吹替派の争いを覗いてみると、お互いに

 

字幕で見るメリット&吹替で見るデメリット

吹替で見るメリット&字幕で見るデメリット

 

を並べ立てて、自分が見る手段が正しいことの根拠にしていることが多い。

しかし、それこそが不毛な争いとなることの証左と言える。

 

長々と書いてきたように、字幕派も吹替派も、その手段(字幕or吹替)で刷り込まれているので、いくらメリットを主張したところで無駄だ。

 

ではどうればいいかといえば、愚行権である。他者に危害を加えない限り、愚かに見える行為を許容し合う権利のことで、「他人の幸福追求権」と言い換えてもよい。

 

つまり、放っておけばいいのだ。それぞれ自分の好きなスタイルで映画を楽しみ、他人のスタイルが気に入らないからといってケチをつけないようにスルー。それでいいじゃないか。字幕・吹替に限った話じゃないけど。